今日
スタジオの床がまだ少し湿っていた。
靴底がきゅっと鳴るたび、今日の撮影が軽くないことを思い出す。
空調は効いているのに、現場は最初からぬるかった。
女優は入ってきてすぐ、鏡の前で黙った。
スマホも触らず、誰とも目を合わせない。
こういう日は、だいたい“作る”のが難しい。
メイクが進むにつれ、顔は仕上がっていくのに、
目だけがまだ現実に残っている。
俺は台本を閉じて言った。
「今日は、無理に綺麗にやらなくていい」
カメラが回り始めると、空気が変わる。
男優の呼吸が少し早く、
照明の熱で汗が浮き、
その全部をカメラが容赦なく拾っていく。
一度、止めた。
芝居が上手すぎた。
身体は動いているのに、心が遅れている。
「今のは安全すぎる」
そう言うと、彼女は舌打ちするように息を吐いた。
次のテイク。
セリフは噛み、間は乱れ、
視線が一瞬泳いだ。
でも、その一瞬が一番正直だった。
モニター越しに、
“仕事”じゃない表情がちらっと映った。
現場は静かだった。
スタッフも、誰も口を挟まない。
ただ、撮っている。
切り取っている。
消費される前の感情を。
終わったあと、彼女は笑わなかった。
「疲れました」
それだけ言って、タオルで顔を押さえた。
俺は「お疲れ」とだけ返した。
余計な言葉は、今日は嘘になる。
帰り際、スタジオのゴミ袋から
使い捨ての何かがはみ出しているのを見て、
急に現実に引き戻される。
夢みたいな時間の、残骸。
家に帰ってシャワーを浴びても、
照明の熱と、あの沈黙がまだ肌に残っている。
俺は人の“さらけ出す瞬間”で飯を食っている。
綺麗ごとじゃない。
でも、完全に割り切れるほど鈍くもなれない。
明日もまた、
誰かの一番柔らかいところに
カメラを向ける。
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